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ゆかりの地ネットワーク 21
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戦国時代の末期には、上杉謙信の養子であった上杉景勝が会津地域を治めていたことがありました。 景勝は謙信の死後、豊臣秀吉の政権に参加します。その結果、慶長3年(1598年)に越後から会津へ領地が移り、会津、伊達、庄内、越後の120万石の領地を支配することになりました。 秀吉の死後、景勝は徳川家康に対抗したため、家康の会津征伐に備えて神指城を築こうとしました。しかし、関ケ原の戦いで工事は中断してしまい、敗れた景勝は米沢に領地を移され、石高も30万石に減らされてしまいました。 こうして景勝の会津支配は終わったのですが、保科正之の娘・媛(はる)姫が米沢藩主・上杉綱勝に嫁ぐなど、会津との関係はその後も続きました。 戊辰(ぼしん)戦争時には、米沢藩は仙台藩などと「奥羽越列藩同盟」を結成し、会津藩とともに西軍と戦いました。 現在では会津・米沢間の国道も整備され、気軽に行き来できる身近なまちとなっています。
伊達氏、上杉氏と500年近く続いた城下町であり、中でも伊達政宗が米沢城で青年期を過ごしたことは有名です。 南に広がる吾妻峰の雄大な自然環境を四季を通して楽しむことができ、白布温泉などの温泉群にも恵まれています。 |