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| 会津藩が上洛してから、3年後の慶応元年(1865年)に完成した京都守護職屋敷の門です。屋敷は京都御所西側一帯の広大な敷地に建てられました。京都守護職の配下であった新選組も、この門を通り、頻繁に屋敷を出入りしていたのでしょうか。現在、屋敷のあった場所には京都府庁が建っており、門自体は、平安神宮の西南に移築されています |
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初め機四郎と称した。名は義直。家禄(ろく)100石の堀藤左衛門長民の二男として若松で生まれ、後に150石の外島家を継ぐ。
機兵衛がまだ実家の堀家にいた幼少のころのこと。父の藤左衛門は癇癪(かんしゃく)持ちで、自分の意に満たないことがあると、手あたりしだいに家の物を庭などへ投げつけて壊してしまうという、悪い癖があった。
あるとき、このありさまにたまりかねた機兵衛は、突然、「父上、私もご助勢つかまつります」そう言うなり日ごろ父が愛がんしているものを庭へと投げ捨てたのである。これにはさすがに藤左衛門も、あきれてものが言えなかった。幼いときから、そうした機知と聡明(そうめい)さがあった。
文久2年(1862年)、京都守護職として上洛(らく)する藩主に先だって、機兵衛ら数名はその準備をするために入京した。会津藩ではただちに、外交担当グループである公用方(局)を京都に設け、すぐれた人材を集めた。公用方は会津藩の頭脳集団といっても過言ではない。
機兵衛は京都常詰(づめ)の御聞(おきき)番兼公用人に任命され、新選組と深くかかわるとともに、公卿(くぎょう)や諸藩の士とも広く交友している。とくに、熊本藩の上田久兵衛(一徳)と親交があり、二人の往復書簡が残されている。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いの後、会津藩士たちは江戸に戻り、そして2月にはほとんどの人々は会津へと帰っていった。機兵衛は主命により、その善後策のため江戸にとどまっていた。しかし、長年による激務の心労のためであろうか、病床についていた。
3月7日、広澤富次郎と話をしているとき、突然、呼吸が止まり、そのまま息絶えてしまったという。時に43歳であった。
―――――― 市文化財保護審議会委員 間島 勲著
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