トップページへ

もくじへもどる前ページへ次ページへ


幕末回顧 会津藩士そして新選組
野村左兵衛
 会津藩士たちと深くかかわりを持っていた新選組。 このコーナーでは6回にわたり、 時代の大きな流れの中で新選組と歩んだ会津藩士を紹介していきます。
金戒光明寺
京都守護職として赴任した松平容保が、 会津藩本陣を置いた金戒光明寺。 近藤勇らが上覧試合を披露したこの境内には、 会津藩墓地があります

都守護職に任命された会津藩主松平容保が、1,000人に及ぶ藩士たちを率いて上洛したのは文久2年 (1862年) 12月末のことであった。 会津藩ではただちに京都に公用方(こうようかた)という役場を設け、 会津と江戸から優れた人材を集めた。 この公用方を代表して外交を担当するのが公用人であり、 これを補佐して共に働くのが公用方勤(つとめ)と呼ばれた人々である。

村左兵衛は公用人を命じられた。 ほかには小森一貫斎や手代木直右衛門、 外島機兵衛らがおり、 広沢富次郎や秋月悌次郎らは、 公用方勤であった。 彼らは朝廷や幕府への対応、 あるいは京都における他藩の動向などに目を配りつつ、 時には新選組に指示を出したり行動を共にすることもあった。

兵衛は洒脱(しゃだつ)で人望もあり、 在京諸藩の留守居役の間では 「名声ありて先生と呼びて推尊せられたり」 という。 新選組の近藤勇とは特に親しかったらしく、 京都で生まれた左兵衛の庶子2人のうちの1人を近藤が養子に所望していた、 という話が伝えられている。

兵衛はまた、 風雅の人で、 和歌にたくみであった。
    乗りならす駒の蹄(ひづめ)もかをるまで
    並木のさくら春風ぞ吹く
これは、 その代表作であり、 会津の名歌として今日まで語り継がれている。

兵衛は名を直臣(なおおみ)といい、 家録400石の野村左馬丞直樹の長男として生まれた。 後に加増されて550石となるが、 慶応3年 (1867年) 5月、 京都において病死している。 時に53歳。 黒谷の会津藩墓地に葬られた。

―――――― 市文化財保護審議会委員 間島 勲著

 

もくじへもどる前ページへ次ページへ

トップページへ