幕末へタイムトラベル(戊辰150周年記念連載)

公開日 2019年01月31日

 

戊辰150周年ロゴ

 平成30年(2018年)は、会津における戊辰戦争の終結から150周年を迎える節目の年でした。
 これを記念し、あいづわかまつ市政だよりでは、平成29年8月号から平成31年2月号まで、戊辰戦争に関連した場所などを紹介するコーナー「幕末へタイムトラベル」を連載していました。
 このページでは、掲載された記事をまとめて紹介していますので、ぜひご覧ください。

もくじ

 

 

平成31年2月号 「山川健次郎」

 山川健次郎は、戊辰戦争後、秋月悌次郎の手配で長州藩士・奥平謙輔のもとに書生として預けられます。明治4年には18歳で国費留学生としてアメリカに留学し、エール大学で物理を学びました。死に物狂いで勉強したといわれる健次郎は、22歳で学位を取得し、帰国後は日本人初の物理学教授になるなど、日本物理学研究の基礎を築きます。明治34年に東京帝国大学総長に就任すると、その後も九州帝国大学初代総長や京都帝国大学総長を務め、日本の教育に大きな功績を残しました。
 健次郎は会津育英会の前身でもある会津学校会の設立や上京する学生のための寮(現在の会津学生寮)の建設など、人材の育成にも大きく貢献しています。さらに、兄・浩の後を引き継ぎ刊行した「京都守護職始末」や著書「会津戊辰戦史」では、戊辰戦争時の会津藩の立場を明らかにしました。また、健次郎は時間や礼儀に厳しい人で「ならぬことはならぬ」という会津武士の精神を生涯貫いた人物でもありました。

 

山川健次郎の胸像の写真會津藩校日新館の正門の前に置かれた山川健次郎の胸像です。健次郎の胸像は会津高校(表町)と九州大学(福岡県)にも置かれています。健次郎は幼いころ、鶴ケ城の西隣にあった日新館で学んでいました
會津藩校日新館の場所の地図くわしい場所は、ページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成30年10月号 「秋月悌次郎」の詩碑

 幕末の会津藩士・秋月悌次郎は日新館で学び、優秀さを認められ江戸へ留学します。安政6年(1859年)、会津藩は、江戸で学ぶ秋月に、西国諸国を周遊し各藩の情勢を探る大役を命じます。松平容保が京都守護職を拝命すると、西国諸国の事情に詳しかった秋月は、他の藩や公家との折衝や情報収集を担う公用方に任命されます。
 戊辰戦争で軍事奉行添役として籠城戦を指揮した秋月は、敗戦が濃厚になると藩命を受け、新政府軍(西軍)の包囲の中、城を抜け出します。秋月は米沢藩を通じて土佐藩と交渉し、降伏・開城に向け奔走しました。
 戦後、猪苗代や東京などで謹慎していた秋月は、自由の身となった後、熊本にある第五高等学校など、各地の学校の教授になります。第五高等学校での同僚・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、秋月の人柄や学識に感銘を受け「神のような人」と評して慕ったといわれています。

 

「秋月悌次郎」の詩碑の写真鶴ケ城三の丸の入り口に立つ碑には、「行くに興こしなく帰るに家なし 国破れて孤城雀鴉(こじょうじゃくあ)乱る」という詩が刻まれています。これは、猪苗代に謹慎中の秋月が、面識のあった長州藩士とひそかに会い、会津藩の減刑の訴えに行った帰りに詠んだ詩といわれています
「秋月悌次郎」の詩碑の場所の地図くわしい場所は、ページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成30年9月号 甲賀町通(北出丸大通り)

 鶴ケ城の北出丸から北の市街地方面に伸びる北出丸大通りは、江戸時代には「甲賀町通」として参勤交代にも使われた通りです。かつてこの通り沿いには、家老の西郷・内藤・一瀬・三宅・小原などの屋敷があり、鶴ケ城の大手門に繋がる主要な通りとなっていました。
 戊辰戦争で1カ月間の籠城戦を繰り広げた会津藩でしたが、3千人ともいわれる多くの死者を出し、慶応4年(1868年)9月22日、北出丸追手門前に白旗を掲げ、やむなく降伏しました。降伏式は甲賀町通の西郷家と内藤家の間の路上で行われ、東側に新政府軍(西軍)、西側に松平容保・喜徳親子が座り、執り行われたとされています。このとき会津藩の家臣たちは戊辰戦争の悔しさを忘れないため、降伏式で敷かれていた赤い毛氈を各々切り取って持ち帰りました。後にこの毛氈は「泣血氈」と呼ばれ、現在にも伝えられています。

注意事項

  • 内藤邸跡は現在、福島地方裁判所会津若松支部になっています。当時の建物はありませんが「白露庭」という庭園が残されています。

 

甲賀町通の写真 鶴ケ城が見えるこの場所で降伏式が行われ、会津における戊辰戦争が幕を下ろしました
甲賀町通の場所の地図 くわしい場所は、ページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成30年7月号 熊野口郭門跡(城南町)

 熊野口郭門は、天神橋に近かったことから「天神口郭門」とも呼ばれていて、城の物資補給の入り口になっていました。
 慶応4年(1868年)8月23日、鶴ケ城に押し寄せた新政府軍(西軍)は、北出丸を攻略しようと迫っていましたが、会津藩の守りが堅く、攻めあぐねいていました。そこで、新政府軍は、南側に一隊を回して、比較的守りが手薄になっていた熊野口郭門から攻略しようとしました。新政府軍の動きを察知した会津藩は、急いで兵を集めて必死に防戦し、多数の戦死者を出しながらも新政府軍を退けました。
 この郭門跡に隣接する南口駐車場の北側の豊岡墓地周辺には、徳川家康や歴代藩主を祀る東照宮や、豊岡社、延寿寺などがありましたが、新政府軍の拠点にならないよう全て焼き払い、後々までこの郭門を確保しました。

注意事項

  • 現在、熊野口郭門跡は、私有地や道路になっています
「天神口の戦い」の絵城内から打ち出て新政府軍(西軍)に向かう会津兵を描いたこの絵は「天神口の戦い」です(所蔵は阿弥陀寺)
熊野口郭門跡の場所の地図 くわしい場所は、ページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成30年5月号 如来堂(神指町如来堂)

 市の北西部、神指城跡の一角にある「如来堂」は、戊辰戦争の際に、斎藤一ら新選組の激戦の地になった場所です。
 慶応4年(1868年)8月21日、母成峠の戦いに敗れた新選組は、援軍を求めるため北に向かおうとした土方歳三らと、会津に留まった斎藤一らに分かれました。この際、斎藤一は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と語ったとも伝えられています。如来堂に拠点を構え、越後街道の守りにあたった斎藤一らは、日光口や滝沢街道を進軍してきた新政府軍に見つかり、激しい戦いを繰り広げました。
 その戦いで新選組は全員が討ち死にしたと伝えられてきましたが、後に数名が生存していることが分かりました。生き延びた斎藤一は「藤田五郎」と名を改め、西南戦争にも参加するなど、明治から大正まで、激動の時代を生き抜きました。

注意事項

  • 如来堂周辺には駐車場がありませんのでご注意ください
如来堂の写真お堂や石碑のほか、市内にあるイチョウの中で4番目の幹回りを誇る巨木「如来堂のイチョウ」があります
如来堂の場所の地図 くわしい場所は、ページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成30年2月号 小田山・西軍砲陣跡(門田町黒岩)

 鶴ヶ城の南東約1.5キロメートルに位置する小田山からは、城や城下を望むことができます。慶応4年(1868年)、白河方面から進軍してきた新政府軍は、鶴ヶ城内への侵入を試みましたが、堅固な造りに加え、各国境に配置されていた會津藩の守備隊が城に戻り始めていたこともあり、鶴ヶ城を攻めあぐねていました。そのため、新政府軍は作戦を替え、鶴ヶ城を見下ろす位置にある小田山の中腹に砲列を敷き、8月26日、鶴ヶ城への砲撃を開始しました。
 會津藩は、この小田山の奪還を図ろうとしましたが、思うようにいかず、砲撃に耐えながら約1ヶ月間の籠城戦に入るのでした。
 現在、小田山中腹の大砲が据えられた場所には、「西軍砲陣跡」の説明板が付けられています。山頂には會津藩の名家老・田中玄宰の墓、周辺には恵倫寺や建福寺、「奈与竹の碑」で知られる善龍寺など、會津藩や戊辰戦争に縁のある名刹(めいさつ)・古跡があります。

西軍砲陣跡から望む鶴ヶ城の写真戊辰戦争の際に、鶴ヶ城への砲撃場所となった小田山。現在は、公園としても整備されており、四季を通して散策を楽しむことができます(西軍砲陣跡から望む鶴ヶ城)
西軍砲陣跡の場所の地図 くわしい場所はページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成30年1月号 甲賀町口郭門跡(栄町)

 江戸時代の若松の城下には、土塁と外堀がめぐらされ、その内側に武士が、その外側に町人が住む町割りでした。そこには、16カ所の郭門があり、甲賀町口郭門はその中でも郭内への大手門にあたり、堅固な造りとなっていました。
 戊辰戦争では、滝沢峠から攻め込んできた新政府軍と会津軍が戦った激戦地の一つで、松平容保公もこの郭門に留まり、藩士を指揮・激励したと伝えられています。會津藩は国境守備に重点を置き、城下の守備は手薄でした。このため、甲賀町口郭門での戦いでも進攻されてしまいますが、城内からの銃撃や各国境で戦っていた軍が戻り集結してきたことにより、お城への侵入は許しませんでした。ここから約1カ月にわたる籠城戦に突入します。
 現存する石垣は、当時の姿を今に伝える唯一の郭門の跡で、史跡若松城跡の一部として国の史跡に指定されています。

甲賀町口郭門跡の写真

16カ所に設けられた郭門のうち、唯一現存する甲賀町口郭門。道の両側にあった石垣のうち、現在は西側の石垣を残すのみとなりました。まちなかに残る貴重な史跡で歴史に思いをはせてみませんか

甲賀町口郭門跡の場所の地図

くわしい場所は、ページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成29年10月号 旧滝沢本陣(一箕町八幡)

 旧滝沢本陣は、旧白河街道、滝沢峠の入口に位置し、滝沢組11か村の郷頭(ごうがしら)であった横山家に設けられました。それまでは江戸への参勤交代や領内巡視、土津(はにつ)神社への参拝などの際に旅支度をする休息所として利用されていたものです。主屋は17世紀末ごろの建築で県内では際立って古く、19世紀初めごろに造られた本陣の座敷とあわせて国指定重要文化財になっているほか、敷地も史跡に指定されています。
 戊辰戦争では、旧白河街道が戦略上、重要な場所となったため、松平容保公が陣頭指揮のために白虎隊士中二番隊を従え出陣。この地が前線の大本営となりました。
 戦況は十六橋が破られた後、戸ノ口原での戦いを経て、新政府軍は滝沢峠を越えて城下に進入。旧滝沢本陣も戦場となり、激戦が繰り広げられました。今もなお砲弾の跡や刀傷が残されており、当時の戦いの様子をうかがい知ることができます。

見学時間

  • 午前8時から午後5時まで
  • 12月から3月までの見学は予約が必要なのでご注意ください

見学料金

  • 大人:300円
  • 高校生:250円
  • 中学生:150円
  • 小学生以下:100円

お問い合わせ

  • 旧滝沢本陣
  • 電話番号:0242-22ー8525
旧滝沢本陣の入口の写真

殿様が通る門「御入御門(ごいりごもん)」や殿様の座る「御座之間(ござのま)」、湯殿などが当時の姿を残しています。戊辰戦争の際に松平容保公が指揮を執り、後に戦いの地にもなった歴史的に重要な場所を訪れてみませんか

旧滝沢本陣の場所の地図

くわしい場所は、ページ最下部の地図でもご覧いただけます。

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平成29年9月号 戸ノ口原(河東町八田)から 飯盛山弁天洞穴(一箕町八幡)まで

 慶応4年(1868年)8月22日、會津藩は、十六橋を突破した新政府軍と戸ノ口原で戦いとなります。白虎隊士中二番隊は、この戦いの増援として戦場に赴いています。このときの隊士は42人と伝えられています。8月23日、戦況の悪化により退却する際、このうち約半数の隊士たちは、山中を潜行。数人の犠牲者を出しながら飯盛山に到達し、煙に包まれているお城と城下を目にして自刃しました。この隊士たちがくぐった洞穴が飯盛山弁天洞穴(戸ノ口堰洞穴)です。
 戸ノ口堰は元和9年(1623年)、猪苗代湖から水を引き八田野周辺を開墾しようとして開削したのが始まりで、元禄6年(1693年)に若松まで通水されました。その後、天保6年(1835年)、堰筋(せきすじ)の大改修が行われ、洞穴が造成されました。こうして引き込まれた水は、現在、かんがい利用や生活用水としての利用のほか、鶴ヶ城公園のお堀にも利用されています。

注意事項

  • 戸ノ口原古戦場跡周辺には駐車場がありませんのでご注意ください
戸ノ口原古戦場跡の供養塔の写真

戸ノ口原は、国道49号と湊町の赤井谷地の間に位置し、會津藩と新政府軍の激戦があった場所です。戸ノ口原古戦場跡には供養塔が建てられています

戸ノ口原古戦場跡の場所の地図

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平成29年8月号 十六橋(湊町赤井)

 慶応4年(1868年)8月22日、母成峠を越えてきた新政府軍は、城下を目指していました。會津藩は進軍を止めるため、強固な十六橋を破壊しようとしていましたが、破壊する前に新政府軍が到達し戦いになりました。
 このとき會津藩側は、主力が藩境に布陣していたこともあり、僧侶を中心とした義勇兵で構成された奇勝隊で、使用していた銃も旧式でした。結局、橋の破壊には成功せず、新政府軍の進入を許して後退しました。これにより、戦場は戸ノ口原に移ることとなり、白虎隊士中二番隊の悲劇にも繋がることになります。
 その後、十六橋は、安積疏水事業の一環で、明治13年(1880年)に水門を兼ね備えた橋として改めて建設されました。現在の水門と橋が分離している十六橋は、大正2年(1913年)から大正3年(1914年)までに改築されたもので、経済産業省の「近代化産業遺産群 続33」に認定されています。

施設見学について

 水門の内部を見学するには申請が必要ですが、橋や水門の外観は自由に見ることができます。詳細は、お問い合わせください。

お問い合わせ

  • 安積疏水土地改良区
  • 電話番号:024ー922ー4595
十六橋の写真

十六橋は、猪苗代湖から流れる日橋川に架かる橋です。猪苗代方面から城下に侵入する交通の要所で、会津における戊辰戦争の中でも重要なポイントになったところです

十六橋の場所の地図

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市政だよりについて

 市政だよりの紙面については、以下のリンクからPDFファイルをご覧ください。

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このページに関するお問い合わせ

  • 会津若松市役所 観光課
  • 電話番号:0242-39-1251
  • ファックス番号:0242-39-1433
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地図

戊辰戦争関連マップ