湊町のたから【令和5年9月5日更新】

公開日 2023年09月05日

更新日 2023年09月05日

湊町について

湊町の自然

 湊町は、東に標高514メートルの猪苗代湖、西は標高約830メートルの背炙り高原、南は標高1081メートルの会津布引山に囲まれ、南から北に向かって標高は約530メートル下っており、途中には水田地帯が広がっています。なお湊町の気候は、ほぼ青森と同じです。そのため5月の大型連休に桜が咲きます。
 湊とは、海や湖の潟や入江がある場所をいいます。また、集まるという意味もあり、猪苗代湖の潟や入江、港が集まっております。
 ここ湊町は、自然豊かで特色のある植物も存在しています。
 湊町の北側には、亜寒帯性植物群落として昭和3年3月24日指定された、国指定天然記念物「赤井谷地湿野植物群落」(面積68.4ヘクタール)があります。

 赤井の桜 5月中旬、湊町では八重桜が満開となります。

 また、5月中旬になると、ミズバショウ(左)、ショウジョウバカマ(中)、6月中旬になるとトキソウ(右)が咲きます。
 ミズバショウ ショウジョウバカマ トキソウ

湊町のとっておきアングル

 赤井の大イチョウ 003_R.jpg 中田の浜 064 (1280x960)_R.jpg 鵜ノ浦城跡 068_R.jpg

 樹齢推定600年の「赤井オオイチョウ」、砂浜がきれいな「猪苗代湖と材木山」、戦国時代の山城「鵜ノ浦城跡」があります。
 (左)「赤井オオイチョウ」は、湊町赤井にあり、戦国時代には赤井因幡の屋敷跡でした。
 (中)「材木山」は石英安山岩の半島状の岩山です。「柱状節理」として知られています。
 (右)「鵜ノ浦城」は、戦国時代、会津領主11代盛信の弟の子盛清が初代、3代目範綱の時、天正17年(1589)6月、伊達政宗に攻められ落城しました。

湊町の名水

  湊町には、名水や清水がたくさんあります。いくつかを紹介します。
 不動明王清水  西田面大清水  下馬渡清水  赤井の清水山清水
 左から西田面の「不動明王清水」、西田面の「大清水」、「下馬渡清水」、赤井の「清水山清水」です。
 ゴミは散かさず、持ち帰ってください。農作業に支障のないように駐車してください。

湊町の史跡

 会津で最も古くから人が住んでいた湊町。約2万5千前から生活していた遺跡が、笹山原の会津レクリエーション公園内にあります。
 会津で2番目に古い1287年の「石動木板碑」(会津若松市指定)が崎川の石動木にあります。
 また、赤井地区の旧街道「穴切の一里塚」(会津若松市指定史跡)、高坂地区の旧国道に「高坂の一里塚」一里塚が残されています。
 なお、「穴切の一里塚」へは、車で近くまではいけません。

 石動木の板碑 005_R.jpg  穴切の一里塚
 (左)石動木板碑
 (右)穴切の一里塚

湊町の食

 湊町限定「豆腐もち」

 湊町では、明治時代頃から、軽く油で炒めた豆腐に餅をからめて食べる「豆腐もち」が食べられています。標高530メートルの湊町は、高地にあることから米が冷害で採れない時がありました。その時、大豆や稗などを食していたことがあります。豊富にある清水を利用して、湊町上馬渡で豆腐が作られるようになり、「清水屋の豆腐」として、親しまれるようになり、その技術が湊町の大きな集落の農家へ伝わるようになりました。豆腐の食べ方は、木綿ごしだけでなく、さまざまあって、油揚げや厚揚という一般的なもの以外に、豆腐を炒めることもしていました。また、餅は、節句や冠婚葬祭などで来客があった特別なときにだけ振舞うものであり、そこに揚げた豆腐をからめて、上馬渡の清水屋で「特別なごちそう」として出したのが、湊町に広がりました。現在、湊町には豆腐店はありませんが、豆腐はふだんから食べられ、特別な日には「豆腐もち」を各家庭で作り食べています。
 豆腐もち_R.jpg

 湊町特産「揚げもち」
 湊町の農家では、雪のある時期の保存食として作られたものですが、今では一年を通して食べられている「おやつ」です。餅に風味や食感をつけるためにシソ、大豆、ゴマ、クルミなどを入れて、餅をつき、切って揚げたものです。ふっくらと仕上げるには、とろろか自然薯、または卵を加えます。仕上げに少量の塩をふりかけます。翌日でも風味は落ちずおいしく食べられます。
 揚げもち

 湊町「乾燥ぜんまい」
 湊町は山菜も豊富です。湊町西田面産「乾燥ぜんまい」は、道の駅ばんだいやJAまんま~じゃでも販売されています。
 乾燥ぜんまい

湊町の人物

 川島 廣守(かわしま ひろもり) 大正11年(1922)2月27日~平成24年(2012)12月9日
 会津若松市湊町大字赤井出身です。
 会津中学を経て、中央大学法学部へ入学。大学卒業後内務省へ入省。インドネシア・サバン島で終戦を迎えます。
 戦後、警察庁、内閣調査室長、内閣官房副長官などを歴任しました。
 退官後、日本鉄道建設公団副総裁、第3代セントラル・リーグ会長、第10代プロ野球コミッショナーを務めました。

 坂内 文石(ばんない ぶんせき) 慶応元年(1865)~昭和5年
 湊町出身の日本画家。原地区の旅籠屋「越後屋」を営む、小川文一郎(現在の右善)の次男としてに生まれます。
 小さいころから、絵が上手でした。会津本郷窯の水野雪渚の弟子となり、遠藤霞村の弟子として修行をします。
 絵付けの功績が認められ、一人立ちできるようになり、縁あって原の街道向、坂内家(現在の清一)の養子となります。
 明治28年、本郷に窯業徒弟学校が創設されると教員となり、県立会津工業学校へ移行されるとそのまま指導をしていました。
 絵としては、とくに会津の風物を描いた「会津萬歳図」が知られています。
 昭和9年には、「坂内文石先生記念碑」が県立会津工業高等学校に建立され、グラウンド北側にあります。
 坂内文石1.JPG 「会津萬歳図」郡山市湖南町から来た二人が演じていました。小川家蔵

湊町ガイドマップ

湊町ガイドマップ表.pdf(505KB)

湊町ガイドマップ裏.pdf(1MB)

お問い合わせ

  • 会津若松市教育委員会 湊公民館
  • 電話:0242-93-2461
  • FAX:0242-93-2462
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